Asuka's Blog

ゼミ・インターン・大学生活の記録。

〈日頃から問いを立てる〉

こんにちは。

3年生が始まりはじめての投稿となってしまいました。

今回はゼミで哲学対話について考えました。

 

須長先生に講義していただきました。ですが、もっとも考える機会であった回を体調不良でお休みしてしまったので、ほかのゼミ生のブログに頼りながら私なりのまとめを書いていこうと思います。

 

哲学第1回目の時、マークトウェイン「人間とは何か」から課題がありました。

①利己主義についての感想

  自分の考えと近いなと思いました。

 

②その理由は?

   一般的に言われる”善い行為“などをするのは自分が大切にしたい人や尊敬する人、仲良くなってもっと知りたいなと思う人に対してです。

もっともどんな人にも心を配ることができるのが理想ですが、自分のキャパは狭く余裕がないのでなかなかできていません。

だからこそ自分ができること・時に想う人に対して行動し表現する。もしその自分の行動からありがとうって言われたらすごく嬉しくなります。

このように考える基本軸が自分であることから利己主義に近いのではないかと思います。

 

③利己主義を正しいと思うか?

   私は正しいと思いました。上記のようにやはり思考の中心には自分がいて、相手が笑顔になってくれるのを期待しているのです。ただ利己主義のみの極端な世界はあたたかみにかけてしまうのではないかと思います。どこをどう線引きしたらいいのか考えてもいろいろな条件が出てきてしまい結局わからないですが、どちらの主義も存在し、状況や相手によって割合は常に変わっていくのでは....とまとめることにします。

 

そして先週はじめて須長先生の授業を受け、自身が何気なく話していた言葉やキーワードの厚みや重みについて一度立ち止まり考える必要があるなとこれまでとは違う視点が出てきました。

 

言葉が持っている印象に素通りするのではなく、そもそも○○ってなんだろうと問いを立ててみるのです。

授業中、森田先生から急に出された「経験・体験を通じ成長できる人とは」という課題について考えていた時、成長って?という問いが出ました。するとそれぞれ解釈の違いがありました。

変化や比較、私は出来ないことやしたことがないことができるようになることと捉えていました。

“成長”の受け取り方がチーム内でこれだけ違うのですから、課題に対しての答えが話し合うたびに変わっていく理由がわかったような気がしました。

 

そこへ須長先生の結論のひとつが私の中ではっとなりました。それは『大事なのは正しい証拠ではなく、間違っている証拠』というものです。

この結論によって曖昧に理解して話し合いが続き、焦点が広がり過ぎていっていた“成長”にチーム内で共有できる最低限の境界線がはっきりできた感覚がありました。

 

時間が来てしまいはっきりとした結論は出なかったですが、哲学的対話はめんどうかもしれない問いを曖昧にしない、話し合いの中心をよりぶれなくさせることができるのではないかなと思いました。

 

あー...授業受けたかったです。みんながどうやって思考を変えいくことができたのか、そんな様子も観察して自分と比較できたらまた別の新しい視点に気づけたかもしれなかったのになぁ…。

でもまずはここで一度区切りることにします。

 

以上です。